なぜこの仕事をしているか、時々質問されることがあります。
その度に悩むのですが、一言で言うと、好きだから。そして、頂上が見えないからなんですね。
有名なイギリスの登山家マロリーの「そこに山があるから」ではありませんが、そこに障害、障壁があり、越えていく、あるいは誰かが越えるお手伝いができる、それに必要な何かを私が提供できるから、です。
私は、小さいころから、ハイキングや山登りをして育ちました。あの達成感のすばらしさたるや、一度体験したらやめられなくなってしまいました。
イギリスに移ってくる前のことですが、その頃の同僚に誘われて富士山にも二度挑戦し、二回とも登頂しました。
富士山は、高山植物が楽しめたり、景色が変わる他の山とは違い、比較的単調です。あの山の形のまま、下から上まで、灰土の路をひたすらジグザグに上っていきます。単調ですから、やはりどこかで、飽きてくるんですね。
5合目から7合目あたりまでは、この先が長いことを考えてしまい気が遠くなる。一瞬「もうやめようかな」「ここでやめたら、戻るのにそんなに時間はかからないだろうな」「でも、下りて誰もいないところでずっと待っているのも退屈だな、さみしいな」「だったらやっぱり上ろうかな」などと、いろいろな思い、そして迷いが頭の中を駆けめぐります。
それでも、とにかく8合目、9合目と歩みを進めてくると、「あと少しだからがんばろう」という気になってきます。何時間もありますから、その途中で、何度となく自分の弱さに直面し、ああだこうだと自問自答していると、ふと、「つべこべ言わず、とにかく足を前へ出そう!」と、無心になっている自分に気づきます。
12時間近くも坂を上ってくると、疲労も溜まってきますから、葛藤も悩みも、迷いすらもネタ切れになってくるんですね。
そんな頃、気がつくと朝焼け、そしてご来光! 無条件に感動するというご褒美が待っているのです。
私が通訳・翻訳の仕事をしているのは、どこか登山に似たところがあるからかもしれません。
通訳をしていると、逃げ出したくなる瞬間もあるし、翻訳の仕事では、引き受けたことを後悔するような仕事だってあります。
地味で地道で手間がかかる。しかも単調で飽きる作業の繰り返し、だってめずらしくありません。
それでも、仕事をやり終えたときの富士山のご来光にも似た、恍惚感、満足感をもう一度味わいたいから、凝りもせずに続けていると、言えなくもないのです。
英語が好きだからとか、お金をもらうためだからとか、その程度のモチベーションだったなら、とっくにやめていたでしょう。
その程度だと、翻訳という仕事は続かない。とっくにガス欠になってしまうと思うのです。そのくらい忍耐力が要ります。
お客さまに納得してもらえるクォリティを出すためはもちろんと、自分で納得できるものを出すために。
そして日々移り変わる世の中でスキルを、意識を維持・向上しつづけるために。
翻訳・通訳に限ったことではありませんが、そのためには、かならず粘り強さが必要になります。
とは言うものの、もともと私はどちらかというと飽きっぽい性格なんです。
では、なぜ、翻訳・通訳は続いているか、長い間生業にしているのか。
ひとつには「この文章が訳されているからこそ伝わった、広がった思いが、そしてメッセージがある」ということにやりがいを感じるからです。
返して言えば、誰かの人生に触れ、変える力を持った思想もメッセージも、訳されなかったら決して伝わらない。埋もれていってしまう。
書き言葉でも、話し言葉でも、人と人が話をすること、メッセージをやり取りすることで、社会は回っています。
言語が複数である以上、異なる言語同士ではお互いを分かり合うことができない。想いも願いも。
伝えたいことは山ほどあるのに、言語が違うから通じ合うことができない。
これほどもったいないことはないと感じます。
中学生の頃感じたこの想いを今でも、毎日のように感じます。
大切なその想いを、体験を、少しでも伝えるお手伝いが、私にできるなら。
お互いの言語で話すことはできなくても、私が通訳することで「伝わった!よかった!」そう思ってもらえるのなら…。
思うように表現できなくて困っている人がいたら、私にもできることがある。
誰かの切なる想いが、願いが、相手に届く。ひとりの人生が変わっていく――。
一人が二人になり、三人になって増え続けていく。
そいういう、人々の出会いやふれあいを、ほんの少しでもお手伝いすることができるとしたら、これほどうれしいことはありません。
その度に悩むのですが、一言で言うと、好きだから。そして、頂上が見えないからなんですね。
有名なイギリスの登山家マロリーの「そこに山があるから」ではありませんが、そこに障害、障壁があり、越えていく、あるいは誰かが越えるお手伝いができる、それに必要な何かを私が提供できるから、です。
私は、小さいころから、ハイキングや山登りをして育ちました。あの達成感のすばらしさたるや、一度体験したらやめられなくなってしまいました。
イギリスに移ってくる前のことですが、その頃の同僚に誘われて富士山にも二度挑戦し、二回とも登頂しました。
富士山は、高山植物が楽しめたり、景色が変わる他の山とは違い、比較的単調です。あの山の形のまま、下から上まで、灰土の路をひたすらジグザグに上っていきます。単調ですから、やはりどこかで、飽きてくるんですね。
5合目から7合目あたりまでは、この先が長いことを考えてしまい気が遠くなる。一瞬「もうやめようかな」「ここでやめたら、戻るのにそんなに時間はかからないだろうな」「でも、下りて誰もいないところでずっと待っているのも退屈だな、さみしいな」「だったらやっぱり上ろうかな」などと、いろいろな思い、そして迷いが頭の中を駆けめぐります。
それでも、とにかく8合目、9合目と歩みを進めてくると、「あと少しだからがんばろう」という気になってきます。何時間もありますから、その途中で、何度となく自分の弱さに直面し、ああだこうだと自問自答していると、ふと、「つべこべ言わず、とにかく足を前へ出そう!」と、無心になっている自分に気づきます。
12時間近くも坂を上ってくると、疲労も溜まってきますから、葛藤も悩みも、迷いすらもネタ切れになってくるんですね。
そんな頃、気がつくと朝焼け、そしてご来光! 無条件に感動するというご褒美が待っているのです。
私が通訳・翻訳の仕事をしているのは、どこか登山に似たところがあるからかもしれません。
通訳をしていると、逃げ出したくなる瞬間もあるし、翻訳の仕事では、引き受けたことを後悔するような仕事だってあります。
地味で地道で手間がかかる。しかも単調で飽きる作業の繰り返し、だってめずらしくありません。
それでも、仕事をやり終えたときの富士山のご来光にも似た、恍惚感、満足感をもう一度味わいたいから、凝りもせずに続けていると、言えなくもないのです。
英語が好きだからとか、お金をもらうためだからとか、その程度のモチベーションだったなら、とっくにやめていたでしょう。
その程度だと、翻訳という仕事は続かない。とっくにガス欠になってしまうと思うのです。そのくらい忍耐力が要ります。
お客さまに納得してもらえるクォリティを出すためはもちろんと、自分で納得できるものを出すために。
そして日々移り変わる世の中でスキルを、意識を維持・向上しつづけるために。
翻訳・通訳に限ったことではありませんが、そのためには、かならず粘り強さが必要になります。
とは言うものの、もともと私はどちらかというと飽きっぽい性格なんです。
では、なぜ、翻訳・通訳は続いているか、長い間生業にしているのか。
ひとつには「この文章が訳されているからこそ伝わった、広がった思いが、そしてメッセージがある」ということにやりがいを感じるからです。
返して言えば、誰かの人生に触れ、変える力を持った思想もメッセージも、訳されなかったら決して伝わらない。埋もれていってしまう。
書き言葉でも、話し言葉でも、人と人が話をすること、メッセージをやり取りすることで、社会は回っています。
言語が複数である以上、異なる言語同士ではお互いを分かり合うことができない。想いも願いも。
伝えたいことは山ほどあるのに、言語が違うから通じ合うことができない。
これほどもったいないことはないと感じます。
中学生の頃感じたこの想いを今でも、毎日のように感じます。
大切なその想いを、体験を、少しでも伝えるお手伝いが、私にできるなら。
お互いの言語で話すことはできなくても、私が通訳することで「伝わった!よかった!」そう思ってもらえるのなら…。
思うように表現できなくて困っている人がいたら、私にもできることがある。
誰かの切なる想いが、願いが、相手に届く。ひとりの人生が変わっていく――。
一人が二人になり、三人になって増え続けていく。
そいういう、人々の出会いやふれあいを、ほんの少しでもお手伝いすることができるとしたら、これほどうれしいことはありません。